コラム - 第1話


矢萩 秀明 - コラム04
第1話 - 昔話し  by 矢萩 秀明
 今回は私のギター人生の始まるきっかけなど、昔話をしようと思います。

1.初めてエレキ・ギターを見た日
2.音楽に目覚めた日
3.兄貴ギターを貸してくれ
4.コピーを始める
5.ゴロちゃんの悲劇
6.恩師・佐藤さんとの出会い
7.番長の知り合いだぞ!
8.東北のロックのメッカ仙台・勾当台公園へ進出
9.初めてギャラをもらう
10.プロを目指す決意
11.目指すはネム音楽院
12.ネム音楽院に入学!



1.初めてエレキ・ギターを見た日

 私がエレキ・ギターを初めて見たのは、私が小学校の2〜3年の時。兄が友人から借りてきたエレキ・ギターを見せてくれた。ザ・ベンチャーズが全盛の頃だったと思う。その頃の私は、音楽にまったく興味がなかったので、どこのメーカーの何と言うギターなのかまったく覚えていない。その頃、兄は高校生で生意気盛り、いつも母を悲しませていた。エレキ・ギターを借りてきた時も、母は「あんなことばかりに夢中になってちっとも勉強しない」と悲しんでいた。そんな母を見て、私は「おかあさん、ぼくは絶対あんな事(音楽の事)しないからね。」と言ったのを覚えている。それが、こうしてギタリストになっているんだから一体どうしたことだろう?母さん、ごめんね。

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2.音楽に目覚めた日

 そんな私が音楽に目覚めたのは、中学2年生から3年生にあがる時。卒業生を送る予餞会(卒業式の前の送別会)があり、卒業生の代表が会のお礼にとギターをかき鳴らしながら歌を歌ってくれた。歌は当時人気があったグループサウンズ/ザ・スパイダースの「夕日が泣いている」(歌は堺正章さん)これを見た(聴いた)瞬間、すごい衝撃を受けた。かっこ良かった。「うわあ〜!普通の人でもこうやって演奏したり、歌ったりしてもいいんだ!!!」私は本当にそう思った。その当時はグループサウンズが大流行していた時なので、演奏したり、歌ったりしているグループサウンズをTVでよく見ていた。私はTVに写っているミュージシャン達は特別な人達で演奏できるのはあたりまえで、まったく別次元の話しだと思っていた。しかし、目の前でかっこよく演奏しているのは自分もよく知っている先輩達ではないか!この人たちは普通の人だ。変なところに感動したものだ。

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3.兄貴ギターを貸してくれ

 と言うわけで、私は音楽に目覚めた。そうなると凝り性の私は早速ギターを弾きたくてたまらなくなった。でも中学3年生の乏しいおこづかいではエレキ・ギターなど買えるはずがない。そこで兄の持っていたフォーク・ギターに目をつけた。ギブソンのハミング・バードのコピー・モデルだった。兄を頼み倒してギターを借りると、平凡や明星の付録の曲集を見ながら知っている曲のコードを弾いた。平凡と明星と言うのは当時の若者が読む芸能雑誌だ。しかしこれは何か違うことに気がついた。どうもエレキ・ギターの音と違う。「そうか、マイクが付いていないからだ!」そう思って、おこづかいをためてサウンド・ホールに後付けするマグネチック・ピックアップを買い込んだ。「マイクも付けたし、よし、これで音が出るぞ。」しかし音はやはりフォーク・ギターの音だった。その頃の私は、アンプが必要な事を知らなかったのだった。でも気を取り直し、それから手探りでギターを弾き始めた。何しろ恐ろしく音楽情報の無い時代だった。

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4.コピーを始める

 私が初めてコピーをした曲は何だったのか今でははっきり覚えていない。でも、その当時グループサウンズが大流行していたから、やはりグループサウンズの曲をコピーした。この頃の私は洋楽、特にROCKは全然存在さえ知らなかった。私のお気に入りは、ザ・ベンチャーズは別格として、ザ・タイガース、ザ・テンプターズ、ザ・スパイダーズ、などだった。これらのバンドのシングル・レコードを買ってきて、何度も何度も聴いた。そして少しずつ譜面に書いていった。わからない所はレコード針を手動で動かしては何度も同じ所を聴くのでレコード盤はぼろぼろになった。なにしろ本当に情報の無い時代だった。音楽雑誌もバンド・スコアもビデオも教則本も無かった。手探りで何とかするしかなかった。情報にはとても敏感だった。いつもアンテナを張り巡らしてちょっとした情報でも何かを読み取ろうとした。だから平凡と明星みたいな雑誌でもくまなく読んだ。写真に楽器が写っていようものなら何度も念入りに見ては「これは何だろう?」となんでも知りたがった。TVにグループサウンズが出て演奏していると必死になって見てできるだけ覚えようとした。何しろビデオなんて便利なものは無かったから。

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5.ごろちゃんの悲劇

 一人でギターを弾き、コピーしてだんだん曲が弾けるようになると今度はバンドがやりたくなってきた。なにしろ私が住んでいた所は、宮城県の船岡と言う小さな城下町。(写真を参照。とても平和でのんびりした美しい町です。)もう田舎で楽器屋なんてもちろん無いし、バンドをやっている人もなかなかいなかった。でも何とか同級生の木村君と吉田君に話しをつけた。木村君はブラス・バンドで小太鼓をやっていてドラム・セットを持っていた。吉田君は何も楽器を持っていなかったがベースをやることにした。この頃には私も機材が増えていた。中古のテスコのアンプ、質屋で5000円で買ったグヤトーンのエレキ・ギター(これが初めて買ったエレキ・ギター)、エーストーンのファズ・マスターを買ってもらったのだ。もちろん父は学校の成績アップを条件に持ち出した事は言うまでもない。練習場は私の家の八畳間だ。もちろん練習スタジオなどどこにも無かった。さすがにドラム・セットを鳴らすのはやめたのだが、それでも私たちのバンドのサウンドは御近所に響渡った。一番被害を受けたのは隣の家のごろちゃんだった。隣の家のごろちゃんは、八百屋さんで朝がとても早い。昼頃には昼寝をしている。ところがこの日以来ごろちゃんの昼寝は妨げられることになる。ごめんね。

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6.恩師・佐藤さんとの出会い

 親は私を医者か弁護士にしたかったそうだ。だから高校も仙台の一高か二高にやらせたかったようだ。その後は大学に行ってほしかったようだ。でも中学3年生から音楽に夢中になった私には大学に行く気はなく。ただ音楽をやりたかっただけだった。県立白石高校に進学した私は、中学時代の同級生とバンドを組み本格的に音楽をやりはじめた。この頃から、いろいろな先輩達に声をかけられるようになってきた。町の先輩達に呼ばれて一緒にローリング・ストーンズの曲を演奏した事もあった。この時期に隣町の佐藤さんに声をかけられた事が自分をプロの道に向かわせるきっかけになった。佐藤さんは東北放送で照明の仕事をしている人で、オルガンの名手だった。佐藤さんのバンドのギタリストにならないかと誘われ、セッションした。白石川の河原にある農家の納屋だった。佐藤さんのは私を気に入ってくれた。この日から隣町の佐藤さんの家に夜毎通うようになった。私にとっては佐藤さんの部屋は音楽学校と同じだった。B.B.KINGやエルビン・ビショップ、いままで聴いたこともない音楽を次々に聴かせてくれた。佐藤さんの家にはオープン・リールのテープ・レコーダーがあったので一緒にセッションしては録音した。また、新映電気のサイケデリック・マシーンやレスリー・スピーカー、エルクの大型アンプなど新しい機材もたくさんあったのでいろいろな実験をして私たちは楽しんだ。こんな中で私のプロになりたいと言う気持ちが固まってきたのだと思う。佐藤さんには心から感謝します。ありがとう。

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7.番長の知り合いだぞ!

 高校の頃、よくブラス・バンドの練習している音楽室でバンドの練習をしていた。当時、ブラス・ロックというのがはやっていた。BSTやシカゴが有名だった。だからブラス・バンドとは接点があったのだ。ある日の放課後、練習していると突然3年生の番長が入ってきた。みんなの間に緊張が走る。演奏を中断してみんな固まっていると、番長はこう言った。「俺にもドラムをたたかせてくれ」番長をドラマーにして演奏をした。番長は少しドラムの経験があったらしくなかなかうまかった。演奏が終わると番長は上機嫌でこう言った。「おまえ達なかなかいいやつらだな。またたたかせてくれ。もしだれかに難癖をつけられたら俺の名前を出して友達だと言え。」ある日、上級生のワルに目をつけられた。「長髪にしてギターなんか弾きやがって生意気だぞ。」ゴルゴ13ににらまれたようなものだ。いや〜、こわい人だった。私は番長の言葉を思いだし「番長の知り合いだぞ!」と言うと、「なんだそうか。早く言えよ。」そう言ってその先輩は去って行ったのだった。まるで水戸黄門様になったような気分だった。それから難癖をつけられることは一度も無かった。ありがとう、番長さん。

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8.東北のロックのメッカ仙台・勾当台公園へ進出

 この頃はハード・ロックが生まれた時代だ。クリームなどのブリティッシュ・ブルース・ロック勢を押し退けて、レッド・ツエッペリンやディープ・パープルなどのハード・ロックを築いたバンドが続々出現してきた。こうしたバンドがでビューするたびに強烈なショックを受けた。GSからスタートした私もだんだんハード・ロッカーに変貌をとげてきていた。髪も肩まで長くなり、ギターもグレコのレスポールとストラトになっていた。レスポールはレッド・ツエッペリンのジミー・ペイジ、ストラトはディープ・パープルのリッチー・ブラックモアの影響だ。実にわかりやすい。東京にはうじゃうじゃバンドがいるのに、何しろ田舎ではなかなかバンドに出会えない。だから近くの高校で文化祭をやっていると聞けば、ギターを引っ提げ出かけて行った。ライブをやっている教室に出向いては飛び入りで演奏させてもらった。時には私が周りを驚かせ、時にはこてんぱんにやられた。そうしてだんだん力をつけていった。宮城県の仙台市は東北の随一の都市だ。仙台では昔からロックが盛んで、匂当台公園の野外ステージはロックのメッカになっていた。気候が良くなると毎週いくつものロック・コンサートが開催された。匂当台公園の野外ステージに出演することは当時のロッカー達のステイタスだった。今では一流のバンドになっている「ハウンド・ドッグ」もこの匂当台公園から巣立って行ったバンドだ。我がバンドもついに仙台の匂当台公園に進出することになった!バンド名は確か「アフロディーテ(女神の名前)」だったような気がする?地元の町の公園の小さな野外ステージで演奏するのにはなれていたのだが、やはり匂当台公園に出ているバンドはうまかった。井の中の蛙だったわけだ。出演バンドの中に「ラブ・セッション」と言うすごくうまいバンドがいた。(ラブ・セッションは後にプロになる。バンドが解散した後も斎藤君はプロ活動を続けている。はず?誰か知っている人がいたら教えて。)このバンドのギターの斎藤君と付き合うようになると、私の行動範囲はぐっと拡がったのだった。斎藤君は何でもよく知っていた。仙台のバンドの事、東京の音楽事情、世界のロック・シーン、楽器の事、ミュージシャン言葉。今思えば私はこの時期斎藤君からずいぶんいろんな事を学んだんだな。ラブ・セッションとはゴルフ場の物置小屋を借りてセッションしたり、ホンとに刺激的だった。そうそう、斎藤君にはディープ・パープルの東京公演に連れて行ってもらったな。上野のアメ横で輸入盤のカクタスのLP盤を買ったのを覚えている。仙台に行くのも大都会に行く覚悟だったのに東京へ行くなんて、当時の高校生の私には外国に行くのと同じくらいの大冒険だった。ありがとう、斎藤君。

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9.初めてギャラをもらう

 こうして仙台へ進出したアフロディーテは、前にも増して活動を活発化した。電力会館で開かれたロック・コンサートに前座として出演したこともあった。その時、初めて日本のプロのロック・バンドを見た。「M」など何バンドかが出演し、トリは「成毛茂と角田ひろ」だった。これがすごかった。角田ひろはドラムを叩きながら歌い、成毛茂はギターを弾きながら足でペダル鍵盤を踏んでベース・ラインを弾いていた!!マーシャル・アンプの三段積みを見たのも初めてだった。マーシャル・アンプとレス・ポールの組み合わせ!ジミー・ペイジだ!これまた分かりやすい。たった二人なのにすごいサウンドだった。すごいショックを受けた。この時、グランドファンク・レイルロードのハートブレイカーを歌ったことを覚えている。確か英語の歌詞が覚えられなくて1番の歌詞を何度も歌っていた。しかも、初めてのコンサート・ホールでの演奏で、上がりにあがり、歌詞は滅茶苦茶になった。ああ、かっこ悪い。この時に初めてギャラをもらった。5000円だった。その後、未成年者は出入り禁止のディスコへ年齢を偽り大学生だと言って出演したこともあったな。フォーク・ブームがやってきた。吉田拓郎が大ブームになった。もう一つのムーブメントは、「ハッピイ・エンド」などの日本語のロック・ミュージックだ。初めはフォーク派とロック派は相容れなかったけれど、「ハッピイ・エンド」などの日本語のロック・バンドが現われると一緒にコンサートをやるようになった。吉田拓郎のコピーをやっていた友人のコンサートを手伝うことになり、東北放送のスタジオを彼の親のこねで借りて練習したこともあった。なんかビートルズになったような気分だった。

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10.プロを目指す決意

 高校では芸術の選択科目は音楽を取っていた。でも高校の音楽の授業は正直言ってつまらなかった。でも嫌いではなかったから自分なりにがんばったつもりなのだが成績は良くなかった。ソルフェージュの試験では歌い終わり「やった!かなりうまく歌えたぞ。」と思って先生や同級生達を見ると皆シーンとして何も言ってくれなかった(涙)。作曲のコンテストには無理やり出されたが、やはり結果は悲惨だった。そんな私が自分の高校の文化祭に出演した。バンドでたしかクリームの「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」などを演奏した。すると音楽の後藤先生があわてて飛んできてこう言った。「矢萩君、今弾いたのは即興演奏なの?」そうだと答えると先生は固まっていた。私のような音楽の劣等生が即興演奏をしていることにショックを受けていたようだ。すみません。高校3年と言えばもう進路の事を決めなければならない時期だ。当然、父親は私に大学進学を望んだが、私には目的もなく大学にいくつもりはまったく無かった。私は東京に出てプロになることしか考えていなかった。当然、父とは意見が対立した。しかし、ある日父は条件付きでプロになる事を許してくれた。実は、何年も後でわかった事だが、これは長兄が父を説得してくれたおかげだったのだ。ありがとう、正明兄さん。父の付けた条件とはこうだ。「芸能界はきびしい世界だ。おまえのように何のつても、こねも無い者が上京しても何ともなるものではない。だから、まず音楽学校に入り、ちゃんと勉強するなら許そう。」私は芸能界に入るつもりはさらさら無かったが、私としてはもう願ったりかなったりの条件なのですぐにOKした。調べて見るとポピュラー・ミュージックを教える音楽学校と言うのは、当時はヤマハの「ネム音楽院」しか無かった。(と思う)そこで早速、仙台のヤマハに聞きに行った。入学するには入学試験にパスしなければならなかった。試験の内容は、実技自由曲/実技課題曲/初見演奏/聴音/理論筆記試験/ピアノ演奏試験などだったと思う。高校の音楽の後藤先生に相談すると、先生はこう言った。「矢萩君、君には無理だ。あきらめなさい。」

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11.目指すはネム音楽院

 先生にはそう言われたけれど、私は一向に気にしなかった。「プロになる」と言うのは自分の生き方としてすでに決めた事で、その事を他人に何と言われようと関係ないのだ。自分がプロになれるかどうかなど悩んだことも無かった。しかし、試験はそうとう難しいと聴いたのでさすがに合格できるかどうか不安だった。そこで仙台のヤマハに相談に行った。そこでヤマハ音楽振興会の星先生に紹介された。星先生は親切に相談に乗ってくれ、いろいろ試験勉強のやりかたを教えてくれた。そしてギターの実技をみてくれる先生まで紹介してくれた。仙台のヤマハには毎月東京から教えに通ってくるプロ・ギタリストの先生がいたのだ!その人は桜井先生と言って、ギブソンの赤いSGをかっこよく弾いていた。実は、後日、私がプロになってから桜井先生と再会することになる。あるTVの歌番組の収録で私がスタジオに行くともう一人ギタリストが来ていた。その人は何と赤いSGを持っているではないか!?「あれ、赤いSGだ!もしかして桜井先生ではありませんか?昔、仙台でギターを教えてもらった矢萩です。」「エ!君があの時の矢萩君!?プロになったんだ!」こうして師弟は再会を果たし一緒に並んでTVのお仕事をしたのであった。桜井先生ありがとう。桜井先生はまったく自己流でやってきた田舎の山猿のような私に親切ていねいにテクニックの基本や楽譜の読み方を教えてくれた。この時使ったテキストが何とバークリーの輸入のテキストだった。(もちろん英文)先生から山ほど宿題を出されて次に会うときまでにできるようにしておく。それ以外にもピアノも習った。理論も独学した。コールユーブンゲンでソルフェージュの練習もした。もう必死だった。こうしていよいよ入学試験の日を迎えたのだ。

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12.ネム音楽院に入学!

 入試の場所は東京の恵比寿駅前のスヤマ・ビルにあった「財団法人ヤマハ音楽振興会」のスタジオでで行われた(当時)。正直いってもう無我夢中で入学試験がどうだったかなんて覚えていない。いろんな事を試験されて気が付くと夕方の恵比寿駅前に一人たっていた。宮城に戻って待っているとやがて合格の通知が来た。「やった!!」佐藤さんにも、星先生にもみんなに報告した。後藤先生に報告すると先生は「信じられない」と言う感じで口をポカンと空けていた。いよいよ東京へでて音楽の勉強ができる!!こうして私の音楽人生がスタートしたのだった。思えばたくさんの人にお世話になって今の自分があるのですね。改めてこれらの人々に感謝の意を表します。ありがとう。ネム音に入学してからの毎日は本当に思い出の多い黄金の日々でした。これからますます面白くなるのですが、この昔話はしばらくお休みさせていただきます。

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