第91話 – 音楽理論について思うこと


音楽理論は絶対ではない

音楽理論は絶対ではない。また、立場や視点によって同じではない。

例えば、和音に加えられるテンションの感じ方も時代によって一様ではない。
人類の長い歴史の中で音楽は進化して来た。
その過程で、人類は新しい響きを耳にして来た。新しい時代には新しい音楽が求められたからだ。

しかし、新鮮な驚きを持って聴いたその響きも、そのサウンドの流行と共に耳に慣れると当たり前の響きに感じられるようになってしまう。
そのような事が繰り返され人類はどんどん不協和な響きに慣れていった。
ならば、協和音ばかりの音楽だけだった時代と、現代の不協和な響きを愛する時代とでは音楽理論に違いがあるのが当然だろうと思う。

アヴォイドの感じ方も時代と共に変化することになるだろう。
現に、ドラエモンの映画の主題歌として大ヒットした「ヒマワリの約束」のサビ部分にはアヴォイドによって響きがひどく濁る箇所があり、私には気になってしょうがないのだが、一般には良い曲として受け入れられている。
もし、この響きの濁りを「善し」とするのなら現在流通している音楽理論書はすべて書き直さなければならなくなるだろう。

私一人が間違っていると主張しても他の圧倒的多数の人が問題ないと考えるなら私の理論は賛同を得られないだろう。
理論が正しいかどうかは作品の評価によって決まる。

音楽理論には目的がある

音楽理論とは、過去の偉大な先人達が編み出して来た作曲のアイデアを一般論として固定化したものだ。
音楽家が良い作品を作りあげた時、その完成に至るまでの思考過程を整理してまとめ上げ、他人が読んで使うことが出来るように方程式化したものが音楽理論だと言える。

もともとは個人の編み出したコツのようなものであったろう。
良いメロディを作るにはこう考えれば良いとか美しい和声の流れを作るにはこうすれば良いとか、それがうまくいった時の思考過程をまとめたものだ。
だから、本来、音楽理論には目的がある。
その目的を前提としてその理論は有効になる。

セオリーとメソッドの違い

一口に「音楽理論」と言ってもセオリー的なものとメソッド的なものは性格が違う。

「セオリー(Theory)」とは物事の因果関係や法則性を体系的かつ合理的に説明するための知識・思考z・見解である。理論や学説や論とも言われる。

「メソッド(Method)」とは目的を達成するために決められたやり方。方法や方式とも言われる。

セオリーは音楽に於ける法則性をまとめたものであり、メソッドは具体な演奏におけるコツのようなものだ。
それは言い換えれば、作編曲理論(セオリー)は音楽を作るための便利な道具であると言える。そしてメソッドはその道具をどう使うかを教えるものであると言える。

ポピュラー・ミュージックに於いてこの違いは例えば、作編曲の理論と即興演奏の理論の違いに現われる。

作編曲の理論と即興演奏の理論は多くの共通部分を持つがまったく同じではない。
作編曲の理論はセオリーであり、即興演奏の理論はメソッド的である。
それは目的が違うことで当然起こる違いなのだ。

ならば、作編曲理論を信奉する者が即興演奏理論をその違いを以て責めるべきではないと思う。

即興演奏理論は個人的方法論

その中で特に即興演奏理論は、かなり個人的な要素が大きいのではないかと思う。

例えば、有名なピアニストであるバリー・ハリス氏は、メジャー7th・コードをメジャー6thコードに置き換えてプレイすることを推奨している。この方がヴォイシングを考える上で都合が良いからである。

また、メジャー6th・コードのアルペジオにそれに対するドミナントに♭9thを加えてディミニッシュド7thに置き換えて出来たアルペジオを加えて出来た音列を「6th Diminish Scale」と名付けて自身も使い、彼のワーク・ショップでも教えている。

つまりこれは「バリー・ハリス・メソッド」あるいは「バリー・ハリス流」の即興演奏術であると言えるだろう。

また、偉大なジャズ・ギタリストであるパット・マルテイーノ氏の提唱する「マイナー・コンヴァージョン」は、簡単に言えばすべてのコードをマイナーコードで代理してマイナー・スケールでアド・リブすると言う即興演奏理論だ。

多少乱暴な理論ではあるが、マイナー・スケール系のフレーズはギタリストにとって運指的に弾き易いので現実には大きなメリットをもたらす手法であると言える。

これも「パット・マルティーノ・メソッド」あるいは「パット・マルティーノ流」と言える。

ミュージシャン一人一人に独自の即興演奏理論があると言ってよいのかも知れない。

作編曲の理論と言えど絶対ではない

作編曲の理論は、音楽上の因果関係を法則化したものではあるが完璧ではない。
それは現実の音楽には不確定な要素が多くあるからに他ならない。

例えば、テンションやアヴォイドについても一般的な定義はあるが、条件によって微妙に違って来る。

例えば、一般的に、あるコードに対してあるテンションが使えるとされているとする。しかし、仮に極端にテンポが遅い状況ではどうだろう?
相対的にそのテンションの音価が大きくなってしまい、おそらくその響きに違和感を感じる可能性が高くなるだろう。

逆に、コードの響きを阻害するとされているアヴォイド・ノートでも不協和を構成する基となるコード・トーンからオクターブが極端に離れていればアヴォイドとして作用しない場合がある。

ハービー・ハンコックの「Tell me a bedtime Story」の冒頭のメロディの音列とコードの関係を調べてみるといい。理論的には有り得ない関係性だがそのサウンドは絶妙に美しく響いている。

これはバークリーのジャズ作曲科を主席で卒業した三枝先生に聞いた話しだが、先生が受けたジャズ作曲科の授業では初めに禁則や定理、原理、原則を山ほど教わるそうだ。そうしてそれらの理論を使って作品を作る実習をしていく。やがて学習の後期になると例外を教え始めるのだそうだ。これも沢山の例外を教わるそうだ。

そして学習の最終章になると「ゆえに君たちは自由だ」と言う結論になるのだと言う。

つまり初めに型を厳格にマスターし、応用を学び、力がついたところで今度は型を崩しにかかる。チェロ奏者で指揮者の斎藤秀雄氏の名言「型に入れ、そして型から出よ」を思い起こした。
型を学び、そして型を壊して出た先に本当の自由=個性があるのであろう。

勇者の剣は勇者しか使えない

すぐれた道具は優れた作品を作るのに大いに役立つのは間違いない。
音楽理論もすぐれた作品を作るのに大いに役立つだろう。

しかし、如何に優れた道具であったとしても、道具は道具でしかないことを忘れてはならない。
優れた道具を買い揃えたからと言って何もしないで良い作品が出来るわけではない。
良い道具を使って駄作を作る可能性も大いにある。

「弘法筆を選ばず」と言うように、良い道具などなくても良い作品を創り出す人もいるのだ。

例えば、セカンダリー・ドミナントの理論がある。
ダイアトニック・コードの組み合わせで出来たコード進行に対して、セカンダリー・ドミナントを挿入したり、置き換えたりすることが可能だと言う理論だが、目的を持たない者にとってはこの理論を知っても「ふーん、そうなんだ」程度のことである。

しかし、自分の曲のコード進行をより良いものにしたいと願っている者ならこの理論はエキサイティングなものだ。

また、どうしたらコード・ソロが出来るだろうかと悩む者にとっては狂喜乱舞するようなヒントであろう。

道具は立派であっても、目的が無い為にそれを使おうともしない者にとってはただ目の前に転がっている道具でしかない。
目的を持ち、その達成を真剣に願う者が優れた道具を持った時にこそ、その道具は威力を発揮するのである。
勇者の剣は勇者にしか使えないものだ。

私はここで選ばれた者にしか理論は使えないと言っているのではない。
理論を理解しようとするなら何故その理論が必要なのか?その理論を使うと何が出来るのか?などを真剣に求めるべきだと言いたい。
それが勇者の資格なのだ。

結局、理論書はヒントに過ぎない

しかし、本来、音や音楽を言葉や記号で書き表すのには限界がある。

例えば、日本の古武術の秘伝書や免許皆伝の書などには技の名前や簡単な説明があるだけだそうだ。
つまりそれを読んでも技は出来るようにはならないのだ。
道場で長い修練を経て身につけた者にしかその技の正体は判らないのだ。

古武術では、技についてあまり深く説明しなかったそうだ。
ある程度のヒントを与え、後は本人の研究と努力に任せた。習得出来るかどうかは本人次第と言うわけだ。

それと同じように音楽理論に於いても、理論の名前(用語)と内容が書いてあれば理論書としては充分なのかも知れない。

「論語・公治長」の「一を聞いて十を知る」のように、問題となるのは受け取る側の考え抜く力や知ろうとする熱意なのかも知れない。

そう思い直して、一つの理論を知るにも何冊かの理論書で調べた上で、自分で考えるようにしている。
そうして多くの事を理解することが出来たが、それでもまだまだ知らない事も多く、従って知りたい事が山ほどある。

理論を知らなくても音楽は出来る。自分の耳と直感を信じるなら。
しかし、理論はより自分の才能を活かし、拡げる為のヒントになるだろう。また、より音楽の本質に肉薄する為の手掛かりとなるだろう。